末松家家系図を発見
年末に大掃除をしていたら、父親の形見の中から末松家の家系図が出てきました。
(初めて皆様にご披露します)
⚫「末松家の先祖は、源氏」
父親から、末松家は武家の家系だと聞かされていましたが、宇多天皇の第4皇子の敦實親王が末松家系図の初めにあり、「源氏の姓を賜る」と書いてあります。

そのことから、宇多源氏が源流だろうと思います。さらに、見開き9ページにわたる家系図を眺めていくと、合戦で戦死した者が多く、源姓から佐々木姓に変わり、佐々木姓から末松姓になっています。


ずっと下って、私が父親から聞いていた高祖父(曾祖父の父)の名前は、末松玄洞(第三代玄洞)であり、福岡県小倉藩で医者をやっており、明治維新後は県議会議員になっています。その前数代遡ってもずっと医者をやっています。



以前、父親とともに、福岡県築上郡友枝村(→太平村→上毛町)にある末松家の菩提寺に数回行きましたが、広大な墓地面積の大半が末松家の祖先墓でした。
どの墓を見ても末松家であり、あまりの数の多さにビックリしました!「末松」姓は、もともと福岡県なのだなあ!と思いました。
伊藤博文元総理の娘婿で内務大臣等もやった有名な末松謙澄子爵(源氏物語を世界で初めて英訳、同郷出身)も縁戚で、直系の子孫の方と一緒に墓参したこともあります。(写真)

⚫「末松さんは在日韓国人ですか?」
と数年前言われたことがありました。
父親が少年時代(韓国の)釜山に住んでいたことや朝鮮日報支社長であった白しんくん参議院議員と親しいという理由からの質問でした。
父が釜山に住んでいた理由は、祖父が当時の富永文一京畿道知事の補佐官であったためです。富永京畿道知事(朝鮮総督府官僚)は、末松家と姻戚関係にあり早稲田大を出た祖父を補佐官として採用したようです。
その後、祖父の若死や敗戦によって、父や家族は全財産を失い、命からがら内地に戻ってきました。
その後、大分県の鶴崎工業高校を卒業して三菱化成(株)に就職し、貧乏な中、親に代わって4人の兄弟姉妹を養いました。
⚫「目の前で母親が射殺、、、」
一方、母親については、山梨県武川村出身の祖父が南満州鉄道(満鉄)に就職したため、満州国の首都であった新京(現在の長春)に生まれ育ちました。
悲劇が襲ったのは、やはり敗戦の時です。関東軍が地元の日本人居留民を見捨ていち早く逃げたため、ソ連軍が日本人居留民を急襲。
母親の目の前で、ソ連兵が祖母を乱暴しようとしたところ、祖母があくまでも抵抗したため祖母をその場で射殺。
母親は半狂乱になりながらも、頭を丸坊主にし顔に墨を塗りながら、他の居留民とともに内地への帰国を目指しました。いわゆる「満州引揚者の悲劇」です。
私の両親は、いずれも大陸で少年少女時代を過ごした大陸派でした。
今から思えば、私が若い頃外交官になったのも、そんな大陸とのご縁があったからなのでしょう。